歴史のロマンに想いをはせながら~大洲城訪問記~

皆さん、こんにちは。
サンライズファームの藤井です。

桜はとうに散り、5月も終わろうとしていますが、ここ大月町では気温が少しずつ上昇しており、暑さを感じることも多くなってまいりました。
じつは先日、宇和島城を訪問した同じ日に、もう一つ別のお城まで足を延ばしておりました。

それは、大洲城です。
大洲城は元徳3年(1331年)、伊予宇都宮氏の宇都宮豊房により伊予国喜多郡大洲(現・愛媛県大洲市大洲)に築城されました。
その後、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景をはじめ、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営を経て近世城郭が整備されました。

明治21年(1888年)、老朽化と構造上の欠陥(1・2層の間に設けられた吹き抜け構造)により、惜しくも天守が取り壊されましたが、4棟の櫓(台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓)は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。4層4階の天守は、明治期の古写真や天守雛形と呼ばれる、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる江戸期の木組模型などの豊富な史料をもとに、平成16年(2004年)に木造復元されました。なお、天守の高さは石垣の上から19.15mもあり日本一とのこと。

いくつかの別名をもつ城でもあります。伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点、そして肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれていたことや、築城当時、川に面した石垣工事が難航したことで、「おひじ」という若い女が人柱として生き埋めになり、彼女の名にちなみ、大洲城下に流れる川を肱川、大洲城を比志城と呼ぶようになったとも言われています。

たいへん見応えがあり、さまざまな歴史を感じられる場所にもなっているので、機会ありましたら、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか? それでは。

逆光による美しい天守のシルエット。